ブチブチ映画ぶち転がし

映画の感想を書くブログです。新作と知名度が一定以下の旧作について書きます。

『神々のたそがれ』感想・レビュー 

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要約

人が神となる惑星、我々が神となる映画。ちんことうんことしっこと唾とネバネバの液体と残飯とその他の諸要素の氾濫と神の愚痴。無理はいけないよって教訓。

みどころ

  • ずっと汚い&美しい妥協なき映像、構図の美しさ
  • 映画ならではながら基本を無視した文法による物語の語らなさの気持ち悪さ
  • 神は辛いという語りかけに我々自身を省みる余韻
  • 隠れミッキーならぬ隠れちんちんを探す

こんな人におすすめ

  • うるさいのが好き
  • うんこ、ちんこ、しっこが好き

評価

汚い。凄い。

 

雑感

簡潔な導入を公式サイトより。

地球より800年ほど進化が遅れている別の惑星に、学者30人が派遣された。その惑星にはルネッサンス初期を思わせたが、何かが起こることを怖れるかのように反動化が進んでいた。王国の首都アルカナルではまず大学が破壊され、知識人狩りがおこなわれた。彼らの処刑にあたったのは王権守護大臣ドン・レバの分隊で、灰色の服を着た家畜商人や小売商人からなっていたこの集団は“灰色隊”と呼ばれ、王の護衛隊は押しのけるほど勢力を担っていた。

地球から派遣された学者の一人に第17代貴族ドン・ルマータと名乗る男(レオニド・ヤルモルニク)がいた。ルマータは、地域の異教神ゴランの非嫡出子であるとされていた。誰もがこの話を信じたわけではないが、皆ルマータのことを警戒した。

知識人たちの一部は隣国イルカンへ逃亡した。そのなかには農民一揆頭目である「背曲がりアラタ」や、錫鉱山で使役される奴隷たちもいた。ルマータはアルカナルに潜入し、知識人たちを匿うべく努めていた。

 

「神々のたそがれ」公式サイトより引用

 そしてこのドン・ルマータという男はある程度、謂わばなろう系的に神のような存在であり、主人公なわけです。

さて、この映画。今のところ個人的うんこ映画界一の名作です。ちんこ映画となるとどうかな…?ちなみに他のおすすめうんこ映画はポール・ヴァーホーヴェンの『ブラック・ブック』などどうでしょうか。ロシア映画といえば個人的に印象深いのはヴィターリー・カネフスキー監督の『動くな、死ね、甦れ!』ですが、それも実にうるさくてこの神々のたそがれはそれを思い起こさせる喧騒でした。

 

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映画としてすごく好きな作品。いずれレビューしたい。
ブラックブック(字幕版)
うんこ、おしっこ、戦争、名作です。

 

しかしこの映画は特に音以上に、画面がうるさいのなんの!!糞尿と唾と得体の知れないネバネバや薄汚い残飯をはじめ、物語に影響しない画面の細部がとことん要素によって埋め尽くされていきます。画面の端、関係ないところでぶっとぶ液体、置かれる食器、人の動き。非常に雑然としています。しかしその画面がめちゃくちゃ汚いがためにめちゃくちゃに美しい。

http://www.ivc-tokyo.co.jp/kamigami/images/story_photo01.jpg

このショット、まさかの映画内になく…こんな凄いショットを…

 

「神々のたそがれ」公式サイトより引用

 


そんな世界は喧騒と暴力の神話に停滞し続けて、狩りと言うべき暴虐の限りが尽くされるのですが、神たるドン・ルマータはそれを眺めながら、学者として自然な状態に干渉することはできません。

そのはずが、コソコソと行っていた賢者の秘匿は既にして干渉以外の何物でもなく…
神様は辛い。神様は辛いのである。全知全能であればよいが、どうにも全能とはいかない…

 

さて、思うにこの映画の特筆すべき特徴は、やたらなロングショットと、さっきも述べた確定性のない諸記号の映像的氾濫(それは、あまりにも露骨に「ありのまま」を表し過ぎる)によって「薄汚れた現実を眺めている」感覚を我々に与え続けることで、実に我々に「神の視座」を意識させる事にあるのかなと思います。人が神となる惑星とは我々が神となる映画であることも意味するわけです。神は辛いと散々言うドン・ルマータのその姿によって、または彼らのカメラ目線の直接的なこちらへの語りかけで、我々観客の持った神の視点と、故のスクリーンの奥への不可侵の辛さ、神の辛さを問うてきます。


自分の大好きな超名作『シュトロツェクの不思議な旅』を観ていた時の感覚に近いものがありました。あの映画の中で「アメリカ」は「檻の中」と形容され、その檻の中であるアメリカに主人公たちがゆくのですが、外から見る我々からは、哀れな登場人物は「檻の中の囚人」でもあり、彼らに手を差し伸べることを許されないし素直に勧められないのです。そういった不可侵の辛さを引きずり出されたものです。

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バカ野郎高すぎる…レンタルもないし…

 

一方そのモンタージュ的な物語の、文法的な意味での「語らなさ」は映画的な力そのものであり、神であるはずの我々でさえ困惑する。そう、映画において神であるのは当然映画監督もであって、その神は辛いというのはそちらの辛さのことも言うのは間違いないでしょう。彼の企画は随分前からあったようなのですが

1968年8月下旬に、チェコスロヴァキアの自由化政策(プラハの春)に対してソ連率いるワルシャワ条約機構軍が軍事介入をおこない、チェコ全土を占領したうえ指導者を逮捕しモスクワへ連行した。このいわゆる「チェコ事件」によって、「神様はつらい」映画化の可能性の芽は摘み取られてしまった。

「神々のたそがれ」公式サイトより引用

とのことです。そして製作にも13年もかかっていて、更に何より完成前に亡くなっている…お悔やみ申し上げます。そして、その辛さは、残念ながら私には想像もできません…

 

さて、映画という形で神の視座を与えられた我々。しかし、神の視座を持ったのは映画においてだけでしょうか。この現代、科学技術という神話によって、我々はもはや神の伝令であったヘルメスよりも早く情報を伝え、巨大な人の総体は正に神の視座を持っているのではなかったでしょうか?
自分が思い出したのは、我々が本来見えるはずのなかった貧困国の子どもたちに持ったあの気持ちです。あれはまあ、当然辛いですよね。不可侵の辛さがあります。そうしてそれを、どうしようもないしと見ず、忘れていく。神の視座から降りることで神を止めるわけです。

でも中々どうして、実は我々って干渉可能なんですよね。ってことでなんか、ふと気づいたときとかに募金とかしちゃって、なんかいいことした気になる。そんなんで良い気がするんですよ。神様は辛いのだから神様はやめる。そのやめ方にも色々あったらいいね、何て小温い感じで締めたいと思います。

P.S.隠れミッキーならぬ隠れちんちんがいっぱいで楽しかったです。